山口功のブログ2018年10月

TOEICと英検の違い(フィクション vs ノンフィクション)

TOEICと英検は、その作風がだいぶ異なる。

数ある違いの中かから1つ紹介してみる。

TOEICには現実世界のネタは出てこない。
主要都市や国名くらいは現実世界のものだが、それ以外は全てフィクションである。

会社の幹部、会社名、店舗、町の名前、イベント、自然公園、ラジオ番組、新聞、ホテル名、映画制作、合併の話、美術館、図書館、仕出し業者、料理教室、などなど

TOEICに登場するこれらは、実在しないTOEICの中だけの存在である。
つまり、現実世界の予備知識が多いか少ないかによって、有利になったり不利になったりすることはないのである。
それよりもむしろ、TOEICに登場する世界観そのものに慣れておくことが大切だ。
例えば、タバコの害についての講演会などは絶対に開かれない、レストランでビールが割引になることは絶対にない、生活保護の申請をする市民は出てこない、人工透析を受ける人もいないが、歯医者の予約をする人は多い。飛行機は大概遅れて、コピー機は故障するか、紙が切れている。

一方、英検(特に上位の級)は、現実世界につながっている。

アメリカの大統領選の事前予想の話とか、
一次大戦前のイギリスの軍艦の話とか、
ネアンデルタール人はなぜ滅びたかとか、
カナダのケベック州の歴史とか、
アメリカの禁酒法の効果とその後の影響、
なぜロブスターは老化しないのかとか、
チャーチルがガリポリの戦いで失敗した話、
プロパガンダがいつどのように商業利用されたか、
カトリック圏における地動説と天動説の相剋、
などなど、

これは、フィクションではないので、「英語の勉強+教養を高める」ということにつながるのでお得かもしれない。
そして、最新の出来事や研究を元に、長文問題を作っていると感じることも多く、なかなか楽しめる。

category
雑記

英検1級攻略計画(進行状況)

2019年6月に受験することを決めて、1級の過去問を使い勉強を進めている。

メインの教材は

「過去問6回分」と、
これまで作り続けた「単語カード」(パス単1級からも拾っている)

の2点である。

単語は、これまで通りカードでひたすら覚え続けていくとして、
過去問を使ったトレーニングは長文から入った。

6回分の過去問には30の文章が含まれている。
トータルで約"14400 words"と言うことだ。

9月1日から音読をしていって、先日全ての文章を5回読み終わり、現在2周目に入っている。

1周目で、文法・語彙・イディオムに不安がない状態を作り出す。
2周目では、それを体に染み込ませつつ、漏れがないかを再確認。
3周目では、スピードアップ重視でさらにやり込み、仕上げる。
4周目は、追加の周で、苦手意識があるところだけピックアップして、再度じっくり仕上げる。

のようなやり方で進めており、144日計画。

すでに、54日分を消化済み。
37.5%地点である。

長文の3周目に入ったら、リスニングの対策も並行して始める予定。

category
英語

「気楽に」から「本格的」への移行が鍵

「気楽に」

「本格的」

この2つのカテゴリーが、教育(趣味・スポーツでも)を考える上での軸になりえる。

「本格的」な教育となると、
初学者相手でも、抽象的で本質的なことを言ったり、伝えることになる。
道具を揃えるにしろ、プロ仕様のものはお金もかかる場合が多い。
時間や根性など、覚悟が必要だ。
誠実なプロは「1週間で誰でもマスター」などとは絶対に言えない。

そうすると、始めようと思った人は、ほぼ間違えなく逃げていく。
「始めようと思っていたんだけど、たいへんそうだからやめるわ」

ということになる。

一方「気楽に」となると、
表面的に派手で綺麗で楽しげで、時間もお金もあまりかからないようなところをクローズアップして、提示する。
これから始めようと思っている人は飛びついてくれる可能性が高い。
道具も、その時だけ使えるリーズナブルなものとか、何かしら別用途のものを代用したりする。
嘘も方便で「簡単だよ!」などと、とにかく体験してもらう。

こういう配慮は、時として必要かもしれない。
始まらなければ話にならない、始まれば持っていきようもあるかもしれない。

問題は、気楽に始めた人は、なかなか本格的に学べないと言うことである。
気楽にはじめて、気楽に終わってしまうと、実は学びにはならない。
使えるレベルの技術は身につかない。

教育・趣味・スポーツ、なんでもそうだが、「気楽に」から「本格的」にいかに移行していくか(または、移行するように促すか)が、1つの鍵になるだろう。

category
雑記

補助輪は徐々に無くしていくものだろ!?

成績表を出すというのは、良い面もあるが、悪い面も多い。

特に、
学校における非常に短いスパンでの
「小テスト」「定期テスト」

評価のための
「宿題のチェック」「ノートチェック」

理想的には、
学習者自身が、入試や、検定などを目指して、あるいは、試験のためではなく何かしらの最終到達地点を自らさだめて、自分で攻略法を考えて勉強する様になればいい。

そうなれば、教育している機関がちょこちょこ一律の宿題をだしたり評価をする必要はないのである。

少人数・プライベートで教えていると、一律的な細かい評価などせずに長い視野で生徒を見ていけるので、ありがたい。
オフィシャルな学校教育ではできないことだろう。

究極的には、
生徒が「大きな目標に向かって、自ら実力を伸ばすことのできる人」になってくれさえすれば、あとは別にどうでもいいのである。
講師としての私は、いくばくか、そのサポートをしていくのが私の仕事であり、自転車の補助輪のようなもの。

はじめ補助輪は必要だが、徐々に無くしていくものであり、増やしていくものではない。

教えに行っているけど、「もはや勝手にやって、勝手にレベルアップしてるな〜。私が行っても行かなくても、関係無いなこりゃ。」

というのが、ゴール。
まあ、仕事無くなって困りそうですが。

category
雑記

「板に付く」まで努力と忍耐を継続

「板に付く」

という感覚は、なかなか大切な感覚である。

勉強でも、仕事でも、趣味でも、服装でも、家事でも、なんでもそうだが、やり始めてしばらくはおぼつかない。
次に何をするか、どんなやり方でやるのか、いちいち意識しないといけないし、いろんなところが、非効率的だったりする。

それが、しばらく続けていると、非効率的なところはどんどん省かれて、やり方が自分流に洗練してきて、さらには、やり方そのものをあまり意識しなくなる。

それが、「板に付いた」状態だろう。

それは生活の一部になっているということであり、そうなるとあとは惰性だけでも前に進んで行く。
運動の3原則のごとく、一度「板に付いた」ものは、他の力がかからない限り、その進行は維持される。

そこまでもっていくのは、努力と忍耐が必要だが、そこに行き着けばあとは案外楽なのだ。

category
雑記

生徒が喜んでやっていることには、水を差さない。

英語学習において、なんとなくの王道みたいなものがあるかもしれない。

そして、大抵の場合、講師は
「こういう方法がいいぞ。自分はこの方法で上達した。」
という確信や信念があったりする。

そうなると、生徒が非常に偏っている方法で勉強していると、それを止めたくなる。

中学レベルの文法がほとんど身についていないのに、なぜか単語だけは大学入試にも出ないような異常に難しいものをひたすら覚えていたり、
文法問題は何千問も死ぬほど取り組んでいるのに、長文はまったく読まないとか、

単語はもう十分だ、とか、
文法問題はもういい、と言いたくなる。

しかし、結果的には本人が喜んでやっているものは止めない方がいい。
大抵の場合、止めた時の弊害の方が大きい。
生徒が行き詰まったと思った時、悩んできた時に、講師はアドバイスをする。
それまでは様子をみるのがいい。

category
雑記

道具に対するこだわり度の違い

道具に対するこだわり、あるいは、執着、あるいは、所有欲、そしてそれに続く愛着の強度は、人によって非常に異なると思う。

仕事で使う道具でも、なんのこだわりもなくそこらへんでたまたま売っていたものを「ん?ああ、これが一番安かったから」などと言って買って、長らく使っていたりする人もいる。

別に高ければいいわけではないのだが、商売道具なのだがらきちんと検討して選べばいいのに、と思ってしまうが、人によって全くそんな感覚がないのである。

どちらにもメリットとデメリットがあると思うが、私はこだわる方なので、こだわった方が、
精度の高い仕事ができるし、
仕事する楽しみが1つ増える
のではなかろうかと考える。

弘法筆を選ばず
弘法筆を選ぶ

あなたは、どちらか?

category
雑記

過去問こそバイブル

「なぜか過去問を持っていない」

受験生教えている時に、よく疑問に思う。

不真面目な受験生で、勉強自体あまりしていないかといえば、そうではない。
学校の宿題(学校の教科書・プリント)、塾の宿題、模試の見直し、模試の過去問、単語帳、などなど、きちんと取り組んでいるのである。

しかし、実際のセンター試験や、実際に受ける学校・大学の過去問を使って勉強している人にはあまり出会わない。

これはおかしなことである。

例えば敬虔なキリスト教徒が、
聖書に載らなかった伝外的な文献を読んだり、中世に書かれた聖書の解説書、教会内での神学論争などをまとめた書物、キリスト教の歴史や、聖人の伝記などを読んでいるのに、なぜか、聖書そのものは読んだこともないし、そもそも持ってもいない、などということがあるだろうか?

まず、聖書そのものを読むべきでは?と思う。

わかりやすいことだが、過去問こそが本物なのであり、模試は本物ではない。
すなわち、過去問が最も重要な教材のはずであり、つまり受験生にとっては聖書みたいなものだ。

逆に言えば、過去問を使って十分に学習すれば、あとの教材はそもそもいらないか、サプリメント的な利用で済んだりするのである。

category
雑記