山口功のブログ雑記
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「学びのレジスタンス活動」を提案

地域教育カフェでも話したことだ。

学校ありき、習い事ありき、教科書ありき、宿題ありき、先生ありき、
そして、みんなが忙しい。

こういう状況において、学び手の主権は制限されているどころか、無いに等しい。

完全に主権を取り戻すには「脱出」すること、つまり学校をボイコットする、人から習う場に行かない、というのが手っ取り早い第一歩になる。

しかし、それには相当のエネルギーが必要だし、脱出後に手にした主権を、活用できるかどうかは別の問題。
いずれにせよ、多くの人にとって現実的では無い。

では、どうするか?
自ら学ぶ力を自ら育てるには、どうするか?

ここで、ささやかながら、リスクの少ない「学びのレジスタンス活動」として、以下の方法を提案したい。

今授業でやっているところ、次の定期テストの範囲、今課されている宿題、誰か(先生・親など)にやれと言われた範囲、
これら以外の範囲を勉強する。

まったく知らない未知の分野に挑戦してもいいのだが、はじめのうちは難しいので「復習」がよい。
例えば、高校1年生なんだけと、中学1の教科書を引っ張り出してきて、読んでみるとか。
1年前に出された漢字の小テストをすらすらできるまで繰り返してみるとか。
やり方も自由に、いろいろ試せる。自分のペースでやれる。
たとえ短時間しかできなくても、自ら主導権をもって学ぶことが、どういうことなのかを知ることができるし、続ければ学び上手になる。

ただし、そのような勉強は絶対に誰にもバレないように行うべきである。
何しろ、レジスタンスである。
どうしても正規軍には勝てない。

一度その活動が知られたら、即座に叩き潰される。

「それはいいから、まず宿題をしなさい!」
「次の試験で少しでも点数を上げないとダメだぞ!そこは試験範囲ではないからやっても無駄!」
「それは、今関係ないでしょ!」
「優先順位を考えて取り組むこと!」
「関係ないことやってるから宿題が間に合わないんじゃないの?」

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真実はわからないという前提

真実を知ることは難しいことである。

ましてや他人の「心情の機微」みたいなものは「わからないもの」と思っておいた方がいい。

例えば、友人を駅前でたまたま見かけたとしよう。
彼は重々しく、しかしどこか落ち着きのない、足取りで、自信なさげで悲しそうに見えたので、話しかけるのを控えた。

彼に関しては、2週間前に1年以上付き合っていた恋人に振られたという噂を聞いている。
駅前には彼と、その彼女がよく一緒に行っていたカフェもあるので、彼は今、振られたことを思い出して何もする気になれず、呆然と駅前を徘徊しているのではなかろうか。
「こりゃ〜、彼が失恋から立ち直るには時間がかかりそうだな。可哀想なやつめ」、と思う。

ところが、真実はこうだ。

叔母が持ってきたケーキを、長期間自室に放置して、痛んでいたにも関わらず、その日の朝食べて、
それから楽しみに待っていた漫画の発売日なので、それを駅前の書店に買いに行く。
しかし、お腹の調子が悪くなり、痛みに耐えながら駆けこめるトイレを探していた。

真実というのは案外そんなものだ。
手がかりから何かを予測することは楽しいことだったりするが、実は自分が勝手に作り出したフィクションである。
その時、その人がどう感じ、どう考えているかは当人にしか分かり得ないし、想像はずれているか、真逆の場合もある。

そもそも、偶然の要素もかなり大きい。
単なる偶然が、他の人からすると、さも意味ありげに見えたりするものだ。

そのような前提で人と関わると、無駄な摩擦、無駄な決め付け、無駄な誤解、無駄な怒り、から解放されるだろう。

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「機能優先服」と「格好優先服」

何か、特定の作業や動作をする専用の服というのがある。

このタイプの服は、まずその作業や動作に対応した機能から考えてデザインされている。
それに「格好良さ」を付随させる場合もあるだろう。

一方、いわゆるユニフォームには、この順番が逆になっていることが多い。
まず「格好良さ(組織アイデンティティーや権威の表現)」
それから、オマケ的に機能性を考えるか、あるいはあまり考えずにデザインされたもの。

便宜上「機能優先服」「格好優先服」と呼ぼう。
世の中の服は、この両極の間のどこかに位置していると思われる。

わかりやすい例を挙げると、

戦場を走り回っている兵士が着ている野戦服は、「機能優先服」である。
一方、軍事パレードを閲兵する将校は「格好優先服」を着ている。

スポーツ選手は、「機能優先服」を着て試合に臨む。

会社員が着るスーツは「格好優先服」だろう。
学校の制服もあきらかに「格好優先服」である。

料理長、医師、警察官などは、「機能と格好の間の服」を着る。
機能も大切だが、権威も示さなくてはならない。

話は発展してしまうが、

「格好」も「機能の一部」だということもできる。
ナチス親衛隊の制服がダサかったら、ヒトラーは台頭しなかったかもしれない。

これは、「格好」が最大限の機能を果たした例として、よく挙げられる。

まあ、世の中には「格好優先服」のはずの学校の制服が、当の生徒に評判が悪くて、入学者数や、生徒の帰属意識に少なからず悪影響を与えたりする例もある。

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改めて、隅から隅まで読む

前書きとか、もくじ、ちょっとしたコラム、注釈、巻末の付録や、索引、著者のプロフィール、(あれば)広告
普段使っている教科書のそんなところに目を通す人は少ない。

ところが、一冊を完璧に「やり込む」上で、これらの部分にも目を通すことは重要だ。

そこに書いてある、ちょっとした知識を吸収できるというのは1つの理由であるが、なによりも
「この一冊に関しては隅から隅まで知っている」
という状態や、そこに向かおうとする意識を得ることができる。

何冊も本を買って、大事そうな部分をさらっと、読み散らかす、問題を解き散らかす、
時として、そのような本との関わり方も必要かもしれない。

しかし、「一冊を完璧に」という経験がゼロのまま一生を終わる人が多くなる時代で、
この経験を持っているというのは、非常に際立った、複眼的なものの見方や、物事と深く関わることができる点で、有利だ。

今一度、メインで使っている教科書、問題集、実用書、小説など、すべてに目を通して見ることをお勧めしたい。

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予備は同じものがいいのか?

戦いに行くときに、武器は必要であろう。
万が一ということもあるので、2つは同様の武器を準備する。

メインの武器、サブ(予備)の武器、という発想である。

その時に、メインとサブを同じものにするか、違うものにするか、というのは悩みどころである。

私は、可能であれば同じものがいいと思う。
メインが使えなくなっても、全く同様にサブを使える。それに、手入れも同様に行える。当然、付属品なども共通で使える。

逆に言えば、メインをM16、サブをAK47というように、別のものを持って行くのは上記のメリットが激減するので、良い選択ではない。

メインもサブもM16の方がいいだろう。

これは理想かもしれないが、そもそもアサルトライフル2つも抱えて走り回るのはあまりに辛い、仕方ないのでサブはそれほどかさばらない拳銃から選ぶか、などどいうことになる。

このように、メインとサブを別のものにする時は、理由が必要だろう。

メインの武器は狭い場所での取り回しがやや不利なので、サブは、狭い場所での取り回しのいいものにしようというなどという発想は、緩やかな補完関係を作れる。

もしくは金銭的な面で、できるだけメインに資金を回したいからという理由で、サブは廉価版にしたりとか、

あとは、格好の問題というのも大きい要因か。

右と左で武装が違う方が絵的に「かっこいい」と感じたりするので、漫画に出て来る主人公の、右に下げている剣と、左に下げている剣は長さや形が違う。(ことが多いのではなかろうか?)

簿記の検定試験開始直前に、電卓が故障した時などを想像してみるとする。
その時、全く同じサブ電卓を出すか、違うサブ電卓を出すか、それも同じシャープなのか、シャープからカシオにかわるのかキャノンなのか、100円ショップのものか。

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記録がどうでもよくなる時期

学習記録をつけることは、有効な行為だと思う。
そして、いかにシンプルに、しかし確信を突いた記録するかが、その有効性を左右する。

何に対して有効かというと、
記録は、学習の効果を向上させ、そして、何よりも学習の継続させやすくするのだ。

ところが、学習が完全に日常化すると、記録がどうでもよくなる時期が来る。

私の場合、それは3年くらいでやって来るらしい。

例えば、

毎日歯を磨くことを目標に、磨いた日にはカレンダーに印をつける。
毎日5分磨くことを目標に、磨いた時間を計って記録する。

そんなことを、おおむね順調に継続して、3年経ったら、自然と記録を付けなくなったりする。
つまり、あまりに日常的な営みになって、記録が常に「丸印5分」になるので、そもそもそれを書く意味がないし、意味がないので記録しなくなるのである。

記録からの卒業である。

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TOEICと英検の違い(フィクション vs ノンフィクション)

TOEICと英検は、その作風がだいぶ異なる。

数ある違いの中かから1つ紹介してみる。

TOEICには現実世界のネタは出てこない。
主要都市や国名くらいは現実世界のものだが、それ以外は全てフィクションである。

会社の幹部、会社名、店舗、町の名前、イベント、自然公園、ラジオ番組、新聞、ホテル名、映画制作、合併の話、美術館、図書館、仕出し業者、料理教室、などなど

TOEICに登場するこれらは、実在しないTOEICの中だけの存在である。
つまり、現実世界の予備知識が多いか少ないかによって、有利になったり不利になったりすることはないのである。
それよりもむしろ、TOEICに登場する世界観そのものに慣れておくことが大切だ。
例えば、タバコの害についての講演会などは絶対に開かれない、レストランでビールが割引になることは絶対にない、生活保護の申請をする市民は出てこない、人工透析を受ける人もいないが、歯医者の予約をする人は多い。飛行機は大概遅れて、コピー機は故障するか、紙が切れている。

一方、英検(特に上位の級)は、現実世界につながっている。

アメリカの大統領選の事前予想の話とか、
一次大戦前のイギリスの軍艦の話とか、
ネアンデルタール人はなぜ滅びたかとか、
カナダのケベック州の歴史とか、
アメリカの禁酒法の効果とその後の影響、
なぜロブスターは老化しないのかとか、
チャーチルがガリポリの戦いで失敗した話、
プロパガンダがいつどのように商業利用されたか、
カトリック圏における地動説と天動説の相剋、
などなど、

これは、フィクションではないので、「英語の勉強+教養を高める」ということにつながるのでお得かもしれない。
そして、最新の出来事や研究を元に、長文問題を作っていると感じることも多く、なかなか楽しめる。

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「気楽に」から「本格的」への移行が鍵

「気楽に」

「本格的」

この2つのカテゴリーが、教育(趣味・スポーツでも)を考える上での軸になりえる。

「本格的」な教育となると、
初学者相手でも、抽象的で本質的なことを言ったり、伝えることになる。
道具を揃えるにしろ、プロ仕様のものはお金もかかる場合が多い。
時間や根性など、覚悟が必要だ。
誠実なプロは「1週間で誰でもマスター」などとは絶対に言えない。

そうすると、始めようと思った人は、ほぼ間違えなく逃げていく。
「始めようと思っていたんだけど、たいへんそうだからやめるわ」

ということになる。

一方「気楽に」となると、
表面的に派手で綺麗で楽しげで、時間もお金もあまりかからないようなところをクローズアップして、提示する。
これから始めようと思っている人は飛びついてくれる可能性が高い。
道具も、その時だけ使えるリーズナブルなものとか、何かしら別用途のものを代用したりする。
嘘も方便で「簡単だよ!」などと、とにかく体験してもらう。

こういう配慮は、時として必要かもしれない。
始まらなければ話にならない、始まれば持っていきようもあるかもしれない。

問題は、気楽に始めた人は、なかなか本格的に学べないと言うことである。
気楽にはじめて、気楽に終わってしまうと、実は学びにはならない。
使えるレベルの技術は身につかない。

教育・趣味・スポーツ、なんでもそうだが、「気楽に」から「本格的」にいかに移行していくか(または、移行するように促すか)が、1つの鍵になるだろう。

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補助輪は徐々に無くしていくものだろ!?

成績表を出すというのは、良い面もあるが、悪い面も多い。

特に、
学校における非常に短いスパンでの
「小テスト」「定期テスト」

評価のための
「宿題のチェック」「ノートチェック」

理想的には、
学習者自身が、入試や、検定などを目指して、あるいは、試験のためではなく何かしらの最終到達地点を自らさだめて、自分で攻略法を考えて勉強する様になればいい。

そうなれば、教育している機関がちょこちょこ一律の宿題をだしたり評価をする必要はないのである。

少人数・プライベートで教えていると、一律的な細かい評価などせずに長い視野で生徒を見ていけるので、ありがたい。
オフィシャルな学校教育ではできないことだろう。

究極的には、
生徒が「大きな目標に向かって、自ら実力を伸ばすことのできる人」になってくれさえすれば、あとは別にどうでもいいのである。
講師としての私は、いくばくか、そのサポートをしていくのが私の仕事であり、自転車の補助輪のようなもの。

はじめ補助輪は必要だが、徐々に無くしていくものであり、増やしていくものではない。

教えに行っているけど、「もはや勝手にやって、勝手にレベルアップしてるな〜。私が行っても行かなくても、関係無いなこりゃ。」

というのが、ゴール。
まあ、仕事無くなって困りそうですが。

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「板に付く」まで努力と忍耐を継続

「板に付く」

という感覚は、なかなか大切な感覚である。

勉強でも、仕事でも、趣味でも、服装でも、家事でも、なんでもそうだが、やり始めてしばらくはおぼつかない。
次に何をするか、どんなやり方でやるのか、いちいち意識しないといけないし、いろんなところが、非効率的だったりする。

それが、しばらく続けていると、非効率的なところはどんどん省かれて、やり方が自分流に洗練してきて、さらには、やり方そのものをあまり意識しなくなる。

それが、「板に付いた」状態だろう。

それは生活の一部になっているということであり、そうなるとあとは惰性だけでも前に進んで行く。
運動の3原則のごとく、一度「板に付いた」ものは、他の力がかからない限り、その進行は維持される。

そこまでもっていくのは、努力と忍耐が必要だが、そこに行き着けばあとは案外楽なのだ。

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生徒が喜んでやっていることには、水を差さない。

英語学習において、なんとなくの王道みたいなものがあるかもしれない。

そして、大抵の場合、講師は
「こういう方法がいいぞ。自分はこの方法で上達した。」
という確信や信念があったりする。

そうなると、生徒が非常に偏っている方法で勉強していると、それを止めたくなる。

中学レベルの文法がほとんど身についていないのに、なぜか単語だけは大学入試にも出ないような異常に難しいものをひたすら覚えていたり、
文法問題は何千問も死ぬほど取り組んでいるのに、長文はまったく読まないとか、

単語はもう十分だ、とか、
文法問題はもういい、と言いたくなる。

しかし、結果的には本人が喜んでやっているものは止めない方がいい。
大抵の場合、止めた時の弊害の方が大きい。
生徒が行き詰まったと思った時、悩んできた時に、講師はアドバイスをする。
それまでは様子をみるのがいい。

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道具に対するこだわり度の違い

道具に対するこだわり、あるいは、執着、あるいは、所有欲、そしてそれに続く愛着の強度は、人によって非常に異なると思う。

仕事で使う道具でも、なんのこだわりもなくそこらへんでたまたま売っていたものを「ん?ああ、これが一番安かったから」などと言って買って、長らく使っていたりする人もいる。

別に高ければいいわけではないのだが、商売道具なのだがらきちんと検討して選べばいいのに、と思ってしまうが、人によって全くそんな感覚がないのである。

どちらにもメリットとデメリットがあると思うが、私はこだわる方なので、こだわった方が、
精度の高い仕事ができるし、
仕事する楽しみが1つ増える
のではなかろうかと考える。

弘法筆を選ばず
弘法筆を選ぶ

あなたは、どちらか?

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過去問こそバイブル

「なぜか過去問を持っていない」

受験生教えている時に、よく疑問に思う。

不真面目な受験生で、勉強自体あまりしていないかといえば、そうではない。
学校の宿題(学校の教科書・プリント)、塾の宿題、模試の見直し、模試の過去問、単語帳、などなど、きちんと取り組んでいるのである。

しかし、実際のセンター試験や、実際に受ける学校・大学の過去問を使って勉強している人にはあまり出会わない。

これはおかしなことである。

例えば敬虔なキリスト教徒が、
聖書に載らなかった伝外的な文献を読んだり、中世に書かれた聖書の解説書、教会内での神学論争などをまとめた書物、キリスト教の歴史や、聖人の伝記などを読んでいるのに、なぜか、聖書そのものは読んだこともないし、そもそも持ってもいない、などということがあるだろうか?

まず、聖書そのものを読むべきでは?と思う。

わかりやすいことだが、過去問こそが本物なのであり、模試は本物ではない。
すなわち、過去問が最も重要な教材のはずであり、つまり受験生にとっては聖書みたいなものだ。

逆に言えば、過去問を使って十分に学習すれば、あとの教材はそもそもいらないか、サプリメント的な利用で済んだりするのである。

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都市部と地方

私は、都市部で生まれ育ち、現在は地方で住んでいる。

具体的には、東京都から山口県という拠点の移動である。

山口県に来て感じた、東京との大きな差は

1 大人がみんな車の免許を持っていて、かつ、ほぼ一人一台自分の車を持っている。(よって大人が在来の電車に乗る機会は皆無に等しい)
2 実店舗で実際に見れる商品の幅が格段に少い。(画材・登山用品・少し高いヘッドフォンなどは現物を見て買うのが不可能)
(3) TOEICテストの回数が格段に少ない(今はその当時より倍に増えたので、この問題はほぼ解消された)

で、あった。

しかし、こちらでよく言われる、

東京の方が「給料が高い、仕事が多い」という感覚は、全く共感できず。
東京で時給換算で500円交通費なし、振込手数料まで引かれる、時にはその給料すら出ないという状況も2年間経験したし、仕事のオファーは結局それしかなかったし、周りを見ても高給取りで、引っ張り凧という人はちょっと見つかりそうもない。
先生業は、生徒の数より先生をできる人の数が多いので、地方に比べると生徒の数は増やしにくい。
個展をやったところで、来るのは知り合いがほとんどだし、知り合いが少ない人は個展やっても人が来ない。
また、これまたよく言われる「チャンスが多い」と言うのも、実のところよくからない。
チャンスを求めるなら急成長中のインドとか、当面は超大国であり続けるだろうアメリカとかへ行ってみる方が楽しいかもしれない。
日本国内は、かなり均一に感じて、わずかな差しか存在しないような気もする。

美術分野だからそうい状況で、別のジャンルの専門家にとってはガラッと状況が違う、などということはあるだろう。

ただ、最近感じるのはほとんどの人が「ここはダメで、東京は良いはずだ」と思い込んでいることが、元気をなくす原因になっているのではないかということ。
自分自身をダメなやつだと思っていれば、自然と元気が無くなって、チャレンジもしなくなる。
それが、県単位で起きている可能性がある。

地方都市に住む人の過半数が、どんどん新しいことをやってやろうというチャレンジ精神に満ちていたら、はじめはカラ元気であってもほどなく、本当に元気になるだろう。
もしかしたら、博多なんかはそんな推進力が働いているのかもしれない。
もともと重要な都市だが、元気の良さはこのところ日本一と聞く。そんな噂がさらに博多を元気のいい都市に成長させているのかもしれない。

そういう圧倒的で集団催眠的な、仕掛けが山口県でもできれば、おもしろいことになるのですけどね。
いずれにしても、どこにいようと、自分の能力と可能性を信じて、その道を進むのが一番で、進むべき道もないまま「成功しやすい場所」ばかり気にするのは不毛だ。

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楽観的に考える

物事を悲観的に考えると、チャレンジする気も起きなくなる。
どうせ、やったってダメだと思うから。

「自分は才能がないから、やってもうまくいかないだろうね」
「世の中は甘くないから、やめておこう」

楽観的な人は違う、

「自分は成功するのだから、やってみるか」
「世の中は甘いのだから、ぶっちぎってやろう」

実際にうまくいくかはわからないが、前に進む限り成長はできるし、何回か失敗しても楽観的に立ち直り、結局はどこかでうまくいくだろう。
それに、うまくいくと自分を信じている人は努力を継続できる。

うまくいかないだろうと思いながら、努力を継続するのは困難だし、努力の質も低下するだろう。

なにより楽観的な人の方が、主体的な人生を送れそうだ。

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主体的に生きる覚悟を必要とする時代

たまに、バブルの頃の話を聞いたり読んだりする。

「どこの国の話か?」と思う。

お金に対する感覚が、全く違うのである。

正社員になっても、一月分の手取りが10万円代前半なんてことも起き始めているし、今後はそれが普通になるだろう。
ところが、物価は対して下がらないので、単純に食・住・光熱費・スマホと車の維持費以外には一切お金を使えない。
というか、一人ではそれすら難しいだろう。

そのような社会で育つ子供達は
「できるだけ給料が高くて安定したところに就職することを、目標に努力せよ」
という単一なプレッシャーの中にいる。

バブルの頃は
「まあ、お金はどうになるから、興味のあることをとことんやってみな」
という雰囲気もあったので、世の中はもっと多様だったのではないだろうかと想像する。

現代の日本において、本当の教育は具現化しにくい。
何が好きでも、何をやっても、

「それ、お金になるの!?」
「どうやって食べていくの!?」

で終わりになる可能性がある。

ある種の閉塞感の中で、日本人が衰退していくのはもはや避けられない状況だ。
この中で、主体的に生きるにはどうしたらいいか?

まず、「主体的に生きようとすること」が、初めの一歩。

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外交も近所付き合いも人間関係

領土問題で、自国の主張を100パーセント通そうとして、仮にそれが実現したらどうなるか?
相手国の国民に恨みが残り、奪い返そうという運動が激化して、紛争や戦争になる。
自国が弱体化した隙に、奪い返されることになる。

領土問題では、自国の主張の51パーセントを通して、相手国には自分たちが49パーセントではなく51パーセント勝利したと思わせるのが最高の着地点らしい。
もしくは、棚上げという手もあるだろう。無理に解決しなくてもいいことは、双方合意で棚上げする。

これは外交全般にも言える。
結局は、人と人の感情の問題である。

近所付き合いもそうであろうし、(会社などの)組織同士の付き合いもそうだろう。
世代間の対立でもそうだし、上司と部下でもそうだ。
外国人労働者と、日本人労働者でもそうだろう。

たとえその能力があっても、徹底的やっつけてやろうという(搾取してやろうという)衝動を抑える叡智、
解決する必要がないものは保留にする寛容さ、
相手の立場になって、相手の主張を考えるイメージ力と・多角的な視点、

どれも必要なことだろう。

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やりたい放題な週末

この2日、誰にも会わずにひたすら勉強をしていた。(通行人、店員などは除く)

クリエイティブな活動(作品制作など)でもなく、とにかく勉強である。
独り言は言っても、人との会話はなし。

ただ、散歩には行った。
近くのため池、近くの水路、近くの川に行って、この日照り続きの影響でどのくらい水位が減ったかを見て回った。
戻ってきて、インターネットで県内のダムの貯水率を確認する。

散歩しながら、ヘッドフォンをかけて英語のシャドウイングを行う。

勉強は、ずっと継続中の英語(音読と、カード回し)と、にわか勉強ながらラテン語、そして放送大学の科目で「音を追求する」というのがあるのだが、そのテキスト(印刷教材という得てして妙な名前で呼ばれる)を読んだりした。
そして、楽器の練習をしたり、STRの収録とアップを行なったりする。

非常に充実した週末であった。

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子供もつなら禁煙しろ!嫌なら独りで暮らせ!

私は、タバコの煙もしくはその臭気が非常に嫌いであり、さらに言えば、それにより具合が悪くなる。

よって、私は喫煙可能な空間に行くことは極力避けているし、喫煙者がいるところでは仕事をしないし、喫煙する人とはできるだけ関わらないようにしている。
でも、それは大人だから自分でそのような選択をすることができるのだと思う。

ともかく、個人的な感覚を別にしても副流煙の害は、結構ひどいらしい。

喫煙者の親を持つ子供はかわいそうだ。
自分の意思とは関係なく、それなりの毒を摂取し続けなくてはならない。

これは明らかに虐待だと思う。
法律で認められている以上、喫煙する権利はあるだろうが、虐待する権利や、他人の健康を害する権利はない。
子供を持ちたいなら禁煙するしかないはずだ。

喫煙を続けるか、家庭を持つか、天秤にかけて考えるべき問題だろう。
両立させようという人は、それなりの悪影響を子供に与えることになり、必然的に子供を虐待していることになる。
昨今、副流煙が悪影響を及ぼすというのを知らない喫煙者はいないだろう。
わかって、やっているのだから恐ろしい。

子供を虐待する親に災いあれ!

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明確化・シンプル化

受験勉強の鍵は、

「明確化」 と 「シンプル化」

である。

目標(そのテストで何点取るなど)を明確にする、自分がいる地点を明確にする、その差を明確にする。
その差を埋めるために、もっとも効率の良い方法を模索しつつ、自分なりの勉強法をシンプル化していく。
後は、一喜一憂せずに淡々と進めるのみ。

当たり前の感覚だが、なぜか多くの学習者にはこの感覚がない。

マークシートの試験だけを受ける人が、必死になって綴りをを覚えていたりする。
さらに悪いことに、綴りを覚えるという意識すらなく、ノートに単語を写す作業になっていたりする場合すらある。

多くの子供の感覚がこうなってしまったのは、本人たちの責任というよりも、周りの大人(学校と家庭)の責任だろう。

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儲かるかよりも、まずは人間でいること。

(従来の価値観からして)儲かりそうもない仕事をしたいと子供が言うと、それを親が止めて、進路変更させたりするらしい。

極端な例を挙げれば、

「詩人になりたい」
「それはやめなさい、公務員になりなさい」

こういうのは、子供の人格の半分くらいを潰す結果になりそうだ。
しかし、この時点では自己主張しているので、そこそこまともである。

最悪なのは、

「将来どんな仕事に就きたいの?」
「考えたことなかった・・・、どんな仕事に就けばいい?」

この場合、子供の人格は順調に潰されたと言えるだろう。

自分で考えて、やってみてからまた考えればいい。
試行錯誤だってできる。
でも、自分で考えることができず、自発的には何もできない人間なったら、それは廃人かもしれない。
「生きている」ではなく、「生きている」という人間だ。


そもそも、何が儲かるのかもわからない時代だろ。

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川から眺める風景

2週間前の大雨以後、雨は全く降らず、全力で晴れている。

昼前に散歩に行って、近くの川(というか水路か)の様子を見るが、かなり水位が減っていた。
サンダルだったので、川に降りて入ってみたが、深いところでも膝まではなかった。

見上げて見るといつも通っている橋が見えるし、よく行くスーパーマーケットの看板も見える。
少し角度が変わっただけでも、異常に新鮮に見える。

身近で見慣れた風景というのは、少し角度が変わるだけでまったく異質に見えるので面白い。
見慣れているものは、ちょっとした変化を感じやすいというのもあるだろう。

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先生のテンションを生徒より低めに調整せよ

ほとんどの先生は、「先生」したいので先生をしている。

ことに学校で働いている常勤の先生は、
工場でアルバイトしているよりも、時給が低く、しかも残業代は合法的に出ない。
それでもやりたいのは、「先生」をしたいのだろうと思う。

しかし、この先生してやるぞ、というテンションの高さについていく生徒は稀である。
これまた多くの場合、生徒は「生徒」になりたいというテンションがあまりない。
気がついたら、ただ、そこに「いる」という感じだったりするのだ。

この状態だと空回りは避けられず、もっと悪いことに、生徒は自分で学習している感覚を奪われる危険大である。

生徒が、自主的に勉強をし始めるために、先生のテンション(教え込みたい願望とか)は生徒並みか生徒より低めに抑えて、少しずつ自由(自由裁量や暇な時間)を与えていくというのは大切だろう。

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スピーキング チューブ ラジオ 計画の3分の1

2018年5月1日から始まった
「スピーキング チューブ ラジオ (伝声管ラジオ)」

先ほど、Ep.42の収録を行なった。

たまに、後から聞いてチェックしたりしているが、思いっきり単語を言い間違えたり、たどたどしかったりするのに気が付く。

後から聞き直して、
「この場合はこう言った方がよかったな〜」
「参ったな、似た単語だけど、意味が全然違うよ・・・」
などと思うことも勉強になったりする。

それでも、この1ヶ月半の間に、いくらかは話し慣れて来たような感じがある。
英語の勉強はしていても、それ以前はほとんど英語で話す機会がなかったので、伸び代はかなりあるのだろう。

「伝声管ラジオ」の企画は、
平均12分のエピソードを、120個アップするという目標を掲げている。

今後、より発信する意味のある内容を選んで、精度の高い番組にしていきたいところだ。

スピーキング チューブ ラジオ

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雑記

別に誰にも強要されていないけど、授業を受ける。

我輩は大学生である。

社会人向けの通信の大学の大学生である。
そして、この2日間はリアルな授業を受けてきた。

2日間、10:00〜17:00まで、8コマ分。
私はこの授業に向けて10日くらい前から合計14時間くらいは準備をした。

今は、かなり充実した気持ちになっている。

考えてみると、素晴らしい空間だと思う。
そして、健全な空間だとも思う。
自分でお金を出してでも習いたい人しか来ていないし、そのような人を相手に講師は教えるわけである。
別に誰にも強要されていない。

ふと、教員の免許更新講習のことを思い出す。
学校の許員は、免許を維持するために、教員免許の10年に1回、この教員免許更新講習というのを、受けなくてはならない。

3万円払って、5日間分の講習を受けるのだが、あれは本当に「歪んだ空間」だったと思う。
実は、得るものもあったにはあったが、とてもではないが、3万円と5日分の価値はなかった。

制度として強制されている講習というのは、受ける方にとっても、教える方にとっても、著しく苦痛だろう。
「こんな、形だけの講習」という意識があるし、ある先生はそれを実際に口に出していたし、私も、もっともだと思った。

とにかく、昨日今日の授業は楽しかった。
これから復習をしようか。

授業自体のことについては、STRで話す予定である。

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