山口功のブログ雑記
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帰っちゃうのは健全

「おい、そこ!授業聞かないんだったら、帰れ!」

中高時代を振り返ると、このように先生に怒鳴られたことを思い出す人も多いだろう。
あるいは、自分が怒鳴られなくても、このように怒鳴っている先生を見かけることはよくあったのではないだろうか?

もちろん、帰る人はいなかっただろう。

しかし近頃は、実際に帰る場合もあるらしい。

実は、私は「帰るのが健全なのではなかろうか」と、思っている。

聞きたくもなく、授業の邪魔をするくらいなら、欠席した方が本人のためにも、他の生徒のためにも、先生のためにもなる。
授業の邪魔をしなかったとしても、別に打ち込みたいことがあるなら、そちらにエネルギーを注げばいい。
勉強をするにしても、そもそも1人で勉強したい人(できる人)は一斉授業に出席する必要はない。

結果的に出席している生徒が、半分以下になったとしてもそれが健全な状態なら、むしろ受け入れるべきだ。

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雑記

第151回 日商簿記 3級

第151回 日商簿記 3級
2019年2月24日

感想

第1問
 「土地付き建物」というのは土地と建物に分けて、それぞれに売買手数料を含めて書くところがややこしいか。
「土地付き建物」だから、勘定科目は「建物」にまとめるべきではないかと、深読みすると間違えるかもしれないが、そんなことすると、土地の方は減価償却しないので、後に減価償却をきちんとできなくなってしまう。

第2問 
 変わり種な問題だと思ったが、元帳の買掛金と、2つの得意先の買掛金元帳から補完する穴埋め問題。ある程度勉強している人にとってはそれほど難しくはない。一瞬、見たことないタイプの問題だな、と思うが解き始めるとすんなり解ける。

第3問
 とても素直な合計試算表の問題。ただし、「仮店舗」というのは引っ掛け要素。

第4問
 商品有高帳の問題。 移動平均方で有り高帳を埋める147回とよく似た問題である。ただ、うっかり売上原価を求めるところで、売上総利益を書かないように。私はここで痛恨のミス。過去問に慣れすぎていると思い込みも激しくなる。
先入先出法の次期繰越高の問題は、最後に仕入れた単価で計算すればいいので、仕組みを知っていれば、面倒な計算もなくすぐに答えを出せる。

第5問
 素直な精算表の問題。ただし、一箇所、固定資産売却損と減価償却累計額が絡んだ訂正仕分けが込み入っていて難しい。

ゆっくり解いても30分余って、「これは満点だな!」と思ったが、どうやら一箇所思い込みで間違えたらしい。
それでも、98点か97点か。

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雑記

「商売・教育・支配」の狭間

教育機関や、先生を選び、関わる上で3つの視点をもってはどうだろうか。

商売人として見る視点、
教育者として見る視点、
支配者として見る視点、

多く先生は教育者でありたいと思っているのだが、学校教育の現場では、やむにやまれず支配者にならざる得なかったりする。
定員割しているか、しそうな大学や、ほとんどの私立学校や塾などの先生は、どうしても教育者であるよりもまず、商売人でなくてはならなくなる。

それが現状である以上、それを受け入れた上で、冷静にこの3つの成分(商売・教育・支配)の配合を見定めなくてはならない。

それを把握できるだけで、見えてくるものがあるだろう。
つまり、学び手の学習には関係のない要素は無視し、逆に有用な部分を享受するにはどうすればいいか、が見えてくるのである。

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スタートしてから2年間は習慣化への戦い

何かを習得するためには、「習慣化する」ことが大切である。

勉強でも、ビジネスでも、運動でも、ダイエットでも、なんでもそうであるが、習慣化できれば、目標を達成するのは時間の問題になる。氷の上を滑って、目標に進んでいくような感覚である。

その程度の境地に達するのに2年くらいかかるかもしれない。

2年続けられたものは、むしろ、やめる方がエネルギーを要するようになる。

「あえて今日は勉強しない、と思っていたけどうっかり勉強してしまった」
という境地である。

勉強慣れしていない人は、バリバリ勉強している人を見て、
「すごい精神力だな〜、私など30分やったら、ぐったりだよ」

などと思うものだが、実は勉強慣れしていない人が、30分勉強する方が精神力をはるかに多く消費する。

一喜一憂せずに、騙し騙しでも習慣化に持っていのが、何かを習得するコツだろう。

というか、この「騙し騙し」の助走や加速こそ、勝敗の分かれ目だ。

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自分の人生を生きているのか?

誰にも強制されていないことに取り組んでいる時に、自分の人生を生きていると感じるべきだ。

主体的に勉強するプロジェクト(学びのレジスタンス活動)を小・中・高校生向きに書いたが、
これは大人にも言えることである。

雇い主(上司)の指示に従ってただこなしている仕事は、
先生から渡されたプリントを、言われたやり方に従い、ただこなしているのに似ている。

そして、多くの人は、無条件にそれを「優先事項」、果ては「神聖視」している。

その証拠に、

「学校の宿題をやってからでないと、遊べない」
「仕事で忙しいから、そんな暇はない」

というセリフが聞かれる。

一方

「自分は学校の宿題は無視して、自分にとって効果的な受験勉強を模索してる」
「自分からプロジェクトを企画して、その指揮をとらせてもらえるように経営者に直接頼んだ」
「自分で事業を立ち上げる準備をするために、今の会社辞めて、もっと勤務形態や時間が自由なところに転職する」
「本格的に小説書書き始めたので、非常勤に変えてもらった」

ということは、あまり起きない。

しかし、こういう心意気を持った人は、自分の人生を生きている人である。
このような心意気こそ「神聖視」してはどうだろうか?


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集団責任というアイディア

集団責任という考え方は、いい迷惑である。

ABC高校の生徒が、近くのコンビニで万引きをしたとする。
そのような事態が生じたら、ABC高校の生徒は、"万引きをするようなやつら"と認識される。
コンビニの店主はABC高校の生徒が店内に入ってきたら疑いの眼差しを向けるだろう。

だから、ABC高校の先生はどの生徒にも厳しく言う、
「1人でも万引きをしたら、お前らは全員"万引きするようなやつら"になるぞ」
そして、万引きが発生したら、全員体育館に集められて、怒られるか、警告をされる。

しかし、おそらく大半を占めるであろう"万引きをしない生徒"からするとこれら全てが単なる迷惑であり、不愉快であり、少なからず損失を被る。

万引きしない生徒の視点から見ると、

万引き犯が自分と同じ制服を着ていただけなのに、コンビニ店主から疑われる、嫌われる。
責任の取りようがないし、そもそも万引き事件のことなど知りもしなかったのに先生から怒られる。
万引きなどするつもりがないのに、先生に警告される。
無駄に授業が潰れる。

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とにかくやってみる主義 vs 完璧主義

作品を作ったり、何か世の中に発表する時に、人々のスタンスはかなり異なる。

とにかくやってみる主義
完璧主義

を両極に考えてみる。

とにかくやってみる主義は、完璧かどうかなどまるで気にせず、とにかくすぐやって、さほど作り込まずにさっと提示する。
クオリティーは低いし、間違いも多いかもしれない。レベルの低いやつだと思われることもあるだろう。
しかし、タイミングを逃すことはなく、実戦でのトライ・アンド・エラーをたくさんすることができるので、短期間でもクオリティーがある程度までは上がっていくのが普通だ。

完璧主義は、すべて完璧にできるように、リサーチをして、本格的に道具を揃えて、技能を身につけ、そしていきなり完璧なものを世の中に提示する。公式試合にまったく出ないで、ひたすら密かにトレーニングを積み、いきなりオリンピックに出て金メダルを取りにいくのである。失敗している姿を人前にさらすことなく、伝説的な栄光を獲得できる。

外国人観光客を英語でガイドすること、を例に挙げてみよう。

とにかくやってみる主義は、ろくに観光名所のリサーチもせず、英語も高校時代に英検3受かったからなんとかなるだろう、ぐらいの感覚で、出し抜けに外国人観光客の前に立つ。当然支離滅裂で、うまく喋れないし、日本語でも何喋っていいかわからない。質問も英語が聞き取れない、聞き取れてもそもそも知らなかったりして答えられない。しかし、ジャスチャーやノリ、英語で書かれたパンプレット、スマホの翻訳機能などを駆使してなんとか切り抜ける。これを日々続ければ、100回やるうちにはそれなりのガイドはできるようになるだろう。

完璧主義は、まず英語を完璧にする。英検1級、TOEIC満点、は最低でも欲しいところだ。そして、ガイドする観光名所に対するリサーチも徹底的に行う。そして、英語でも日本語でも説明できるように資料を作り読み込んで、暗唱しておく。(10年くらいの準備期間は必要だろう。いや、20年か。)そして、初めてガイドを行う時から、知的なジョークを交えながら、流暢な英語を交え、豊富で正確なな知識の中からもっとも美味しいところを披露し、観光客を楽しませる。そして、いかなる質問にも華麗に答える。

多くの人は、この中間のどこかであろう。

それに同じ人でも、対象とするものによっても違うだろう。
映画を作るのと、英語で観光ガイドをするのとでは、スタンスを変える。
映画作成は完璧、80パーセント、とにかくやる20パーセント
英語で観光ガイドは、完璧30パーセント、とにかくやる70パーセント

このバランスを自らコントロールする意識が大切だ。
それには自分の癖を知る必要もある。

どうも自分は完璧主義すぎて、結局実行できないことが多いな〜、あまり良いことではないな。
お礼状を書こうと思っていて、文面考えていたら4年経っていたので、その間に相手からはなんのお礼も言ってこない人と思われてしまっていたな〜。

とか、そのようなことを知ると、
自分は「雑でもいいから1日でお礼状を出す」「はがきで出すのは時間がかかるなら、メールでもいい」くらいに舵を切った方が、いいぞと考えてみることができる。

もちろん、その逆の人もいるだろう。

人によっては、とにかく、一旦立ち止まって、じっくり考えるようにするとか。トレーニングや準備に時間を取るように心がけた方がいいなと、思うかもしれない。

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学年で分ける意味

学校において、学年で分ける意味が薄れていると感じる。

少なくとも授業の進み具合という観点では学年分けは不都合が多い。

学年で分ける合理性が高いのは、多くの生徒がだいたい同じくらいの理解度で想定された内容の学習を進めている場合である。

つまり、とある高校2年生のクラス30人の上位の生徒も下位の生徒も、同じ教科書を使って学習が可能という状態だと、学年=習熟度別みたいになり、合理性が出る。

しかし、実際はそうならない。
高校2年だけど、中1の内容もわかっていないこともある。そんな生徒でも、ある教科だけはぶっちぎり良かったりすることもあるだろう。
まあ、多くの場合、与えられている教科書のレベルに達している生徒は少ないようだが。

学年でクラス分けするという発想をやめてもいいのではないだろうかと思う。

学年ではなく、入門・初級・中級・上級・最上級、などと教科書を分けて、それに即したクラスを教科ごとに開設する。
学年に関係なく苦手な科目はひたすら入門・初級を繰り返し、得意な科目はどんどんレベルアップして最上級まで極めるみたいな。

こちらの方が、学年分けよりも合理的ではなかろうか?

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「学びのレジスタンス活動」を提案

地域教育カフェでも話したことだ。

学校ありき、習い事ありき、教科書ありき、宿題ありき、先生ありき、
そして、みんなが忙しい。

こういう状況において、学び手の主権は制限されているどころか、無いに等しい。

完全に主権を取り戻すには「脱出」すること、つまり学校をボイコットする、人から習う場に行かない、というのが手っ取り早い第一歩になる。

しかし、それには相当のエネルギーが必要だし、脱出後に手にした主権を、活用できるかどうかは別の問題。
いずれにせよ、多くの人にとって現実的では無い。

では、どうするか?
自ら学ぶ力を自ら育てるには、どうするか?

ここで、ささやかながら、リスクの少ない「学びのレジスタンス活動」として、以下の方法を提案したい。

今授業でやっているところ、次の定期テストの範囲、今課されている宿題、誰か(先生・親など)にやれと言われた範囲、
これら以外の範囲を勉強する。

まったく知らない未知の分野に挑戦してもいいのだが、はじめのうちは難しいので「復習」がよい。
例えば、高校1年生なんだけと、中学1の教科書を引っ張り出してきて、読んでみるとか。
1年前に出された漢字の小テストをすらすらできるまで繰り返してみるとか。
やり方も自由に、いろいろ試せる。自分のペースでやれる。
たとえ短時間しかできなくても、自ら主導権をもって学ぶことが、どういうことなのかを知ることができるし、続ければ学び上手になる。

ただし、そのような勉強は絶対に誰にもバレないように行うべきである。
何しろ、レジスタンスである。
どうしても正規軍には勝てない。

一度その活動が知られたら、即座に叩き潰される。

「それはいいから、まず宿題をしなさい!」
「次の試験で少しでも点数を上げないとダメだぞ!そこは試験範囲ではないからやっても無駄!」
「それは、今関係ないでしょ!」
「優先順位を考えて取り組むこと!」
「関係ないことやってるから宿題が間に合わないんじゃないの?」

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真実はわからないという前提

真実を知ることは難しいことである。

ましてや他人の「心情の機微」みたいなものは「わからないもの」と思っておいた方がいい。

例えば、友人を駅前でたまたま見かけたとしよう。
彼は重々しく、しかしどこか落ち着きのない、足取りで、自信なさげで悲しそうに見えたので、話しかけるのを控えた。

彼に関しては、2週間前に1年以上付き合っていた恋人に振られたという噂を聞いている。
駅前には彼と、その彼女がよく一緒に行っていたカフェもあるので、彼は今、振られたことを思い出して何もする気になれず、呆然と駅前を徘徊しているのではなかろうか。
「こりゃ〜、彼が失恋から立ち直るには時間がかかりそうだな。可哀想なやつめ」、と思う。

ところが、真実はこうだ。

叔母が持ってきたケーキを、長期間自室に放置して、痛んでいたにも関わらず、その日の朝食べて、
それから楽しみに待っていた漫画の発売日なので、それを駅前の書店に買いに行く。
しかし、お腹の調子が悪くなり、痛みに耐えながら駆けこめるトイレを探していた。

真実というのは案外そんなものだ。
手がかりから何かを予測することは楽しいことだったりするが、実は自分が勝手に作り出したフィクションである。
その時、その人がどう感じ、どう考えているかは当人にしか分かり得ないし、想像はずれているか、真逆の場合もある。

そもそも、偶然の要素もかなり大きい。
単なる偶然が、他の人からすると、さも意味ありげに見えたりするものだ。

そのような前提で人と関わると、無駄な摩擦、無駄な決め付け、無駄な誤解、無駄な怒り、から解放されるだろう。

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「機能優先服」と「格好優先服」

何か、特定の作業や動作をする専用の服というのがある。

このタイプの服は、まずその作業や動作に対応した機能から考えてデザインされている。
それに「格好良さ」を付随させる場合もあるだろう。

一方、いわゆるユニフォームには、この順番が逆になっていることが多い。
まず「格好良さ(組織アイデンティティーや権威の表現)」
それから、オマケ的に機能性を考えるか、あるいはあまり考えずにデザインされたもの。

便宜上「機能優先服」「格好優先服」と呼ぼう。
世の中の服は、この両極の間のどこかに位置していると思われる。

わかりやすい例を挙げると、

戦場を走り回っている兵士が着ている野戦服は、「機能優先服」である。
一方、軍事パレードを閲兵する将校は「格好優先服」を着ている。

スポーツ選手は、「機能優先服」を着て試合に臨む。

会社員が着るスーツは「格好優先服」だろう。
学校の制服もあきらかに「格好優先服」である。

料理長、医師、警察官などは、「機能と格好の間の服」を着る。
機能も大切だが、権威も示さなくてはならない。

話は発展してしまうが、

「格好」も「機能の一部」だということもできる。
ナチス親衛隊の制服がダサかったら、ヒトラーは台頭しなかったかもしれない。

これは、「格好」が最大限の機能を果たした例として、よく挙げられる。

まあ、世の中には「格好優先服」のはずの学校の制服が、当の生徒に評判が悪くて、入学者数や、生徒の帰属意識に少なからず悪影響を与えたりする例もある。

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改めて、隅から隅まで読む

前書きとか、もくじ、ちょっとしたコラム、注釈、巻末の付録や、索引、著者のプロフィール、(あれば)広告
普段使っている教科書のそんなところに目を通す人は少ない。

ところが、一冊を完璧に「やり込む」上で、これらの部分にも目を通すことは重要だ。

そこに書いてある、ちょっとした知識を吸収できるというのは1つの理由であるが、なによりも
「この一冊に関しては隅から隅まで知っている」
という状態や、そこに向かおうとする意識を得ることができる。

何冊も本を買って、大事そうな部分をさらっと、読み散らかす、問題を解き散らかす、
時として、そのような本との関わり方も必要かもしれない。

しかし、「一冊を完璧に」という経験がゼロのまま一生を終わる人が多くなる時代で、
この経験を持っているというのは、非常に際立った、複眼的なものの見方や、物事と深く関わることができる点で、有利だ。

今一度、メインで使っている教科書、問題集、実用書、小説など、すべてに目を通して見ることをお勧めしたい。

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予備は同じものがいいのか?

戦いに行くときに、武器は必要であろう。
万が一ということもあるので、2つは同様の武器を準備する。

メインの武器、サブ(予備)の武器、という発想である。

その時に、メインとサブを同じものにするか、違うものにするか、というのは悩みどころである。

私は、可能であれば同じものがいいと思う。
メインが使えなくなっても、全く同様にサブを使える。それに、手入れも同様に行える。当然、付属品なども共通で使える。

逆に言えば、メインをM16、サブをAK47というように、別のものを持って行くのは上記のメリットが激減するので、良い選択ではない。

メインもサブもM16の方がいいだろう。

これは理想かもしれないが、そもそもアサルトライフル2つも抱えて走り回るのはあまりに辛い、仕方ないのでサブはそれほどかさばらない拳銃から選ぶか、などどいうことになる。

このように、メインとサブを別のものにする時は、理由が必要だろう。

メインの武器は狭い場所での取り回しがやや不利なので、サブは、狭い場所での取り回しのいいものにしようというなどという発想は、緩やかな補完関係を作れる。

もしくは金銭的な面で、できるだけメインに資金を回したいからという理由で、サブは廉価版にしたりとか、

あとは、格好の問題というのも大きい要因か。

右と左で武装が違う方が絵的に「かっこいい」と感じたりするので、漫画に出て来る主人公の、右に下げている剣と、左に下げている剣は長さや形が違う。(ことが多いのではなかろうか?)

簿記の検定試験開始直前に、電卓が故障した時などを想像してみるとする。
その時、全く同じサブ電卓を出すか、違うサブ電卓を出すか、それも同じシャープなのか、シャープからカシオにかわるのかキャノンなのか、100円ショップのものか。

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記録がどうでもよくなる時期

学習記録をつけることは、有効な行為だと思う。
そして、いかにシンプルに、しかし確信を突いた記録するかが、その有効性を左右する。

何に対して有効かというと、
記録は、学習の効果を向上させ、そして、何よりも学習の継続させやすくするのだ。

ところが、学習が完全に日常化すると、記録がどうでもよくなる時期が来る。

私の場合、それは3年くらいでやって来るらしい。

例えば、

毎日歯を磨くことを目標に、磨いた日にはカレンダーに印をつける。
毎日5分磨くことを目標に、磨いた時間を計って記録する。

そんなことを、おおむね順調に継続して、3年経ったら、自然と記録を付けなくなったりする。
つまり、あまりに日常的な営みになって、記録が常に「丸印5分」になるので、そもそもそれを書く意味がないし、意味がないので記録しなくなるのである。

記録からの卒業である。

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TOEICと英検の違い(フィクション vs ノンフィクション)

TOEICと英検は、その作風がだいぶ異なる。

数ある違いの中かから1つ紹介してみる。

TOEICには現実世界のネタは出てこない。
主要都市や国名くらいは現実世界のものだが、それ以外は全てフィクションである。

会社の幹部、会社名、店舗、町の名前、イベント、自然公園、ラジオ番組、新聞、ホテル名、映画制作、合併の話、美術館、図書館、仕出し業者、料理教室、などなど

TOEICに登場するこれらは、実在しないTOEICの中だけの存在である。
つまり、現実世界の予備知識が多いか少ないかによって、有利になったり不利になったりすることはないのである。
それよりもむしろ、TOEICに登場する世界観そのものに慣れておくことが大切だ。
例えば、タバコの害についての講演会などは絶対に開かれない、レストランでビールが割引になることは絶対にない、生活保護の申請をする市民は出てこない、人工透析を受ける人もいないが、歯医者の予約をする人は多い。飛行機は大概遅れて、コピー機は故障するか、紙が切れている。

一方、英検(特に上位の級)は、現実世界につながっている。

アメリカの大統領選の事前予想の話とか、
一次大戦前のイギリスの軍艦の話とか、
ネアンデルタール人はなぜ滅びたかとか、
カナダのケベック州の歴史とか、
アメリカの禁酒法の効果とその後の影響、
なぜロブスターは老化しないのかとか、
チャーチルがガリポリの戦いで失敗した話、
プロパガンダがいつどのように商業利用されたか、
カトリック圏における地動説と天動説の相剋、
などなど、

これは、フィクションではないので、「英語の勉強+教養を高める」ということにつながるのでお得かもしれない。
そして、最新の出来事や研究を元に、長文問題を作っていると感じることも多く、なかなか楽しめる。

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「気楽に」から「本格的」への移行が鍵

「気楽に」

「本格的」

この2つのカテゴリーが、教育(趣味・スポーツでも)を考える上での軸になりえる。

「本格的」な教育となると、
初学者相手でも、抽象的で本質的なことを言ったり、伝えることになる。
道具を揃えるにしろ、プロ仕様のものはお金もかかる場合が多い。
時間や根性など、覚悟が必要だ。
誠実なプロは「1週間で誰でもマスター」などとは絶対に言えない。

そうすると、始めようと思った人は、ほぼ間違えなく逃げていく。
「始めようと思っていたんだけど、たいへんそうだからやめるわ」

ということになる。

一方「気楽に」となると、
表面的に派手で綺麗で楽しげで、時間もお金もあまりかからないようなところをクローズアップして、提示する。
これから始めようと思っている人は飛びついてくれる可能性が高い。
道具も、その時だけ使えるリーズナブルなものとか、何かしら別用途のものを代用したりする。
嘘も方便で「簡単だよ!」などと、とにかく体験してもらう。

こういう配慮は、時として必要かもしれない。
始まらなければ話にならない、始まれば持っていきようもあるかもしれない。

問題は、気楽に始めた人は、なかなか本格的に学べないと言うことである。
気楽にはじめて、気楽に終わってしまうと、実は学びにはならない。
使えるレベルの技術は身につかない。

教育・趣味・スポーツ、なんでもそうだが、「気楽に」から「本格的」にいかに移行していくか(または、移行するように促すか)が、1つの鍵になるだろう。

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補助輪は徐々に無くしていくものだろ!?

成績表を出すというのは、良い面もあるが、悪い面も多い。

特に、
学校における非常に短いスパンでの
「小テスト」「定期テスト」

評価のための
「宿題のチェック」「ノートチェック」

理想的には、
学習者自身が、入試や、検定などを目指して、あるいは、試験のためではなく何かしらの最終到達地点を自らさだめて、自分で攻略法を考えて勉強する様になればいい。

そうなれば、教育している機関がちょこちょこ一律の宿題をだしたり評価をする必要はないのである。

少人数・プライベートで教えていると、一律的な細かい評価などせずに長い視野で生徒を見ていけるので、ありがたい。
オフィシャルな学校教育ではできないことだろう。

究極的には、
生徒が「大きな目標に向かって、自ら実力を伸ばすことのできる人」になってくれさえすれば、あとは別にどうでもいいのである。
講師としての私は、いくばくか、そのサポートをしていくのが私の仕事であり、自転車の補助輪のようなもの。

はじめ補助輪は必要だが、徐々に無くしていくものであり、増やしていくものではない。

教えに行っているけど、「もはや勝手にやって、勝手にレベルアップしてるな〜。私が行っても行かなくても、関係無いなこりゃ。」

というのが、ゴール。
まあ、仕事無くなって困りそうですが。

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「板に付く」まで努力と忍耐を継続

「板に付く」

という感覚は、なかなか大切な感覚である。

勉強でも、仕事でも、趣味でも、服装でも、家事でも、なんでもそうだが、やり始めてしばらくはおぼつかない。
次に何をするか、どんなやり方でやるのか、いちいち意識しないといけないし、いろんなところが、非効率的だったりする。

それが、しばらく続けていると、非効率的なところはどんどん省かれて、やり方が自分流に洗練してきて、さらには、やり方そのものをあまり意識しなくなる。

それが、「板に付いた」状態だろう。

それは生活の一部になっているということであり、そうなるとあとは惰性だけでも前に進んで行く。
運動の3原則のごとく、一度「板に付いた」ものは、他の力がかからない限り、その進行は維持される。

そこまでもっていくのは、努力と忍耐が必要だが、そこに行き着けばあとは案外楽なのだ。

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生徒が喜んでやっていることには、水を差さない。

英語学習において、なんとなくの王道みたいなものがあるかもしれない。

そして、大抵の場合、講師は
「こういう方法がいいぞ。自分はこの方法で上達した。」
という確信や信念があったりする。

そうなると、生徒が非常に偏っている方法で勉強していると、それを止めたくなる。

中学レベルの文法がほとんど身についていないのに、なぜか単語だけは大学入試にも出ないような異常に難しいものをひたすら覚えていたり、
文法問題は何千問も死ぬほど取り組んでいるのに、長文はまったく読まないとか、

単語はもう十分だ、とか、
文法問題はもういい、と言いたくなる。

しかし、結果的には本人が喜んでやっているものは止めない方がいい。
大抵の場合、止めた時の弊害の方が大きい。
生徒が行き詰まったと思った時、悩んできた時に、講師はアドバイスをする。
それまでは様子をみるのがいい。

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道具に対するこだわり度の違い

道具に対するこだわり、あるいは、執着、あるいは、所有欲、そしてそれに続く愛着の強度は、人によって非常に異なると思う。

仕事で使う道具でも、なんのこだわりもなくそこらへんでたまたま売っていたものを「ん?ああ、これが一番安かったから」などと言って買って、長らく使っていたりする人もいる。

別に高ければいいわけではないのだが、商売道具なのだがらきちんと検討して選べばいいのに、と思ってしまうが、人によって全くそんな感覚がないのである。

どちらにもメリットとデメリットがあると思うが、私はこだわる方なので、こだわった方が、
精度の高い仕事ができるし、
仕事する楽しみが1つ増える
のではなかろうかと考える。

弘法筆を選ばず
弘法筆を選ぶ

あなたは、どちらか?

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過去問こそバイブル

「なぜか過去問を持っていない」

受験生教えている時に、よく疑問に思う。

不真面目な受験生で、勉強自体あまりしていないかといえば、そうではない。
学校の宿題(学校の教科書・プリント)、塾の宿題、模試の見直し、模試の過去問、単語帳、などなど、きちんと取り組んでいるのである。

しかし、実際のセンター試験や、実際に受ける学校・大学の過去問を使って勉強している人にはあまり出会わない。

これはおかしなことである。

例えば敬虔なキリスト教徒が、
聖書に載らなかった伝外的な文献を読んだり、中世に書かれた聖書の解説書、教会内での神学論争などをまとめた書物、キリスト教の歴史や、聖人の伝記などを読んでいるのに、なぜか、聖書そのものは読んだこともないし、そもそも持ってもいない、などということがあるだろうか?

まず、聖書そのものを読むべきでは?と思う。

わかりやすいことだが、過去問こそが本物なのであり、模試は本物ではない。
すなわち、過去問が最も重要な教材のはずであり、つまり受験生にとっては聖書みたいなものだ。

逆に言えば、過去問を使って十分に学習すれば、あとの教材はそもそもいらないか、サプリメント的な利用で済んだりするのである。

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都市部と地方

私は、都市部で生まれ育ち、現在は地方で住んでいる。

具体的には、東京都から山口県という拠点の移動である。

山口県に来て感じた、東京との大きな差は

1 大人がみんな車の免許を持っていて、かつ、ほぼ一人一台自分の車を持っている。(よって大人が在来の電車に乗る機会は皆無に等しい)
2 実店舗で実際に見れる商品の幅が格段に少い。(画材・登山用品・少し高いヘッドフォンなどは現物を見て買うのが不可能)
(3) TOEICテストの回数が格段に少ない(今はその当時より倍に増えたので、この問題はほぼ解消された)

で、あった。

しかし、こちらでよく言われる、

東京の方が「給料が高い、仕事が多い」という感覚は、全く共感できず。
東京で時給換算で500円交通費なし、振込手数料まで引かれる、時にはその給料すら出ないという状況も2年間経験したし、仕事のオファーは結局それしかなかったし、周りを見ても高給取りで、引っ張り凧という人はちょっと見つかりそうもない。
先生業は、生徒の数より先生をできる人の数が多いので、地方に比べると生徒の数は増やしにくい。
個展をやったところで、来るのは知り合いがほとんどだし、知り合いが少ない人は個展やっても人が来ない。
また、これまたよく言われる「チャンスが多い」と言うのも、実のところよくからない。
チャンスを求めるなら急成長中のインドとか、当面は超大国であり続けるだろうアメリカとかへ行ってみる方が楽しいかもしれない。
日本国内は、かなり均一に感じて、わずかな差しか存在しないような気もする。

美術分野だからそうい状況で、別のジャンルの専門家にとってはガラッと状況が違う、などということはあるだろう。

ただ、最近感じるのはほとんどの人が「ここはダメで、東京は良いはずだ」と思い込んでいることが、元気をなくす原因になっているのではないかということ。
自分自身をダメなやつだと思っていれば、自然と元気が無くなって、チャレンジもしなくなる。
それが、県単位で起きている可能性がある。

地方都市に住む人の過半数が、どんどん新しいことをやってやろうというチャレンジ精神に満ちていたら、はじめはカラ元気であってもほどなく、本当に元気になるだろう。
もしかしたら、博多なんかはそんな推進力が働いているのかもしれない。
もともと重要な都市だが、元気の良さはこのところ日本一と聞く。そんな噂がさらに博多を元気のいい都市に成長させているのかもしれない。

そういう圧倒的で集団催眠的な、仕掛けが山口県でもできれば、おもしろいことになるのですけどね。
いずれにしても、どこにいようと、自分の能力と可能性を信じて、その道を進むのが一番で、進むべき道もないまま「成功しやすい場所」ばかり気にするのは不毛だ。

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楽観的に考える

物事を悲観的に考えると、チャレンジする気も起きなくなる。
どうせ、やったってダメだと思うから。

「自分は才能がないから、やってもうまくいかないだろうね」
「世の中は甘くないから、やめておこう」

楽観的な人は違う、

「自分は成功するのだから、やってみるか」
「世の中は甘いのだから、ぶっちぎってやろう」

実際にうまくいくかはわからないが、前に進む限り成長はできるし、何回か失敗しても楽観的に立ち直り、結局はどこかでうまくいくだろう。
それに、うまくいくと自分を信じている人は努力を継続できる。

うまくいかないだろうと思いながら、努力を継続するのは困難だし、努力の質も低下するだろう。

なにより楽観的な人の方が、主体的な人生を送れそうだ。

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主体的に生きる覚悟を必要とする時代

たまに、バブルの頃の話を聞いたり読んだりする。

「どこの国の話か?」と思う。

お金に対する感覚が、全く違うのである。

正社員になっても、一月分の手取りが10万円代前半なんてことも起き始めているし、今後はそれが普通になるだろう。
ところが、物価は対して下がらないので、単純に食・住・光熱費・スマホと車の維持費以外には一切お金を使えない。
というか、一人ではそれすら難しいだろう。

そのような社会で育つ子供達は
「できるだけ給料が高くて安定したところに就職することを、目標に努力せよ」
という単一なプレッシャーの中にいる。

バブルの頃は
「まあ、お金はどうになるから、興味のあることをとことんやってみな」
という雰囲気もあったので、世の中はもっと多様だったのではないだろうかと想像する。

現代の日本において、本当の教育は具現化しにくい。
何が好きでも、何をやっても、

「それ、お金になるの!?」
「どうやって食べていくの!?」

で終わりになる可能性がある。

ある種の閉塞感の中で、日本人が衰退していくのはもはや避けられない状況だ。
この中で、主体的に生きるにはどうしたらいいか?

まず、「主体的に生きようとすること」が、初めの一歩。

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外交も近所付き合いも人間関係

領土問題で、自国の主張を100パーセント通そうとして、仮にそれが実現したらどうなるか?
相手国の国民に恨みが残り、奪い返そうという運動が激化して、紛争や戦争になる。
自国が弱体化した隙に、奪い返されることになる。

領土問題では、自国の主張の51パーセントを通して、相手国には自分たちが49パーセントではなく51パーセント勝利したと思わせるのが最高の着地点らしい。
もしくは、棚上げという手もあるだろう。無理に解決しなくてもいいことは、双方合意で棚上げする。

これは外交全般にも言える。
結局は、人と人の感情の問題である。

近所付き合いもそうであろうし、(会社などの)組織同士の付き合いもそうだろう。
世代間の対立でもそうだし、上司と部下でもそうだ。
外国人労働者と、日本人労働者でもそうだろう。

たとえその能力があっても、徹底的やっつけてやろうという(搾取してやろうという)衝動を抑える叡智、
解決する必要がないものは保留にする寛容さ、
相手の立場になって、相手の主張を考えるイメージ力と・多角的な視点、

どれも必要なことだろう。

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