山口功のブログ
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年賀状の訂正

1月下旬までの期間限定記事です。

年賀状に多数の誤りがありましたので、お詫びいたします。
そして訂正します。以下が訂正版です。

2017年賀状訂正版

ヒント:下線部が私の名前です。

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雑記

今日のセンター英語、解いてみた。

本日のセンター英語がネットで公開されていたので、早速問題用紙・解答用紙をプリントアウトして、解いてみた。

193点でした。

第二問の"get,catch"問題を普通に間違えて、
校庭の利用のされ方に関する長文問題で、1つマークミスをした。

問題用紙にはちゃんと2に丸を付けていたのに、解答用紙でなぜか4にマークしてしまった。

ベタ読みで丁寧に解いていき、時間はちょうどぴったりだったので、見直ししている時間はなかった。
すなわち、マークミスの発見をするチャンスも無く、それも含めて実力なのだろう。

文脈的には類推は出来たが、見覚えの無い単語が1つあった。
"lick"

学ぶことはやはりある。
そもそも、もっと早く読めるようになりたい。

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英語

センター試験だ!

本日と明日はセンター試験である。

ごく少人数ながら、英語を教えている生徒が受けているので、私もなんとなく緊張したりする。

私は2浪したので、センター試験を3回も受けているのであるが、その頃の英語力はまったくお話しにならず、shouldという単語の存在を知らず、受動態がbe動詞+ppで表現されるということも知らなかった。

従って、問題をみてもわからないので、開始早々ランダムでマークして(TOEICer的には塗り絵という行為です)あとは寝ていた。

それが、私が受けたセンター試験3回とも、そのような状況であり、2浪している間に受動態が作れるようになったり、shouldに出くわしたりすることがなかったのである。

それでも私が桁外れに高倍率の大学に入学できたのは、それが美術の大学で、実技試験命のところであったからだ。
すなわち、センター試験は受けたという事実のみが必要だったのである。

しかしその後、独学で英語を勉強して、TOEICも900を越え、英検準1級も合格した。
それから英語を教える事情で、自分が受けた3回分を含めて、過去問を受験生のように30回分も解いてみると、その試験のクオリティーの高さに感心する。

センター試験は、長文の内容、試される文法項目は、TOEICよりも振り幅が広い。
それでいて、あまり癖が無い。

長い英語学習の「中ボス」として、適していることは認めざる得ない優れたテストだと思う。

今日どんな問題が出るのか、早くみてみたい。
私も受ければ良かったかな。

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雑記

「楽しい・楽しくない」より「覚悟」を!

「面白いからやります」
「楽しそうだからやります」

というのは、裏を返せば、

「飽きたからやめます」
「苦しくなってきたからやめます」

ということをに繋がると思う。

そういう人は、半年ごとに趣味を変え、半年ごとに専攻を変え、半年ごとに転職すると幸せに生きていけそうだ。

しかし、おそらく何も実りがなさそうだ。
表面を滑っているだけの生き方になりかねない。
もっともそれで幸せなら、それはもはやある種の境地に達しているのだろう。
実るまでもなく、もう幸せみたいな。

大切なのは何か目標を決めて、その目標達成に必要だから、これをやっているという意識だろう。
そして、必要な技術修得やプロセスを進めることに対して「楽しい・楽しくない」はどうでもいいことである。

「自分で決めた計画上、やることになっているからやります」
「必要だからやります」

そのような覚悟を決めれば「楽しい・楽しくない」は些末な要素でしかないと感じられるものである。

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雑記

神様の力に頼らずとも勝つ覚悟

御慶!永日!

なにかと玉先生からの出典がおおくなっておりますが、この発想はなかなかいいな!と思ったことがあったので、紹介してみる。

天満宮などに行って合格祈願をする受験生も多いいだろう。
しかし、本当の自分の力だけで勝ちたいと思っている受験生は、神様の力を使わずに勝つつもりなので、合格祈願などはしない。
もし仮に自分が合格した後に、塾の先生が自分の代わりに合格祈願に行ってくれていたというのを知ったら、その受験生は「あ〜、なんだ〜、私の合格は自分の実力じゃなくて神様の力だったのか〜」と思い、がっかりするだろう。

だから玉先生は天満宮には行くが、神様には「落ちそうな受験生は落として、受かりそうな受験生が受かるようにして下さい」とお願いするらしい。

ことに受験は、最終的には自分1人で戦うという覚悟が必要である。

たぶん、途中までは団体戦かもしれない。
親と、クラスの友達と、先生とのチームプレー

しかし、本番が近づくに従って個人プレーになる。

受かる実力を付けて、しかるべき合格を勝ち取る。
まぐれで受かるのは決して誇れることではなく、他の受験生に対しても、大学に対しても、社会に対しても恥ずかしいことである。
神様が「君は頑張っているから本当は3点足りなくて落ちる予定だけど、それを足して受からせてあげるよ」と言われたら「その足りない分はこれから本番までの12日間、自力でなんとかしますから、余計なことはしないで下さい!」というのが本物らしい。

確かに、そのくらいの覚悟はなくてはなるまい。

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雑記

持ちネタを増やす意識

勉強を実りのあるものにするには、

「持ちネタを増やす」

という意識が大切である。

例えば、噺家(落語家)が、師匠から「子ほめ」を教えてもらって、それを高座で演じる。
そして、次に「豆屋」の稽古をつけてもらって、それを演じるころには「子ほめ」は忘れかけてて演じられなくなる。
次に「じゅげむ」を稽古する、その時には「子ほめ」はすっかり忘れて演じられず「豆屋」も忘れかけている。

常に、今習っていることしか出来ない状態になる。

というのは、あまりよろしい状況ではない。もちろん、成長はするのだが、それは限定的である。

「じゅげむ」の稽古をしている時にも「子ほめ」「豆屋」は持ちネタとして、すぐに演じられるようにしておくべきである。

もっとも、学校の勉強とかだと、そういうことを考える余地も与えられないほどに、次々に教材や課題・宿題を与えられて、それを追いかけるので精一杯ということになってしまうかもしれない。

ことに受験では「持ちネタ」が試されるので、いくらたくさんやっても、持ちネタになっていなければ、解ける設問は常に1つのみ、みたいなことになってしまう。

そのあたりを考えられると、受験はもとより、あらゆることに確かな技術を身につけることの出来る人になれる。

ひいては、必要性に追いかけられるだけの人生から脱することがでる。

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雑記

「尊敬のし直し」by玉先生

玉先生の「マジ玉ラジオ」を聞いていて、確かにそうだな、と思ったことがある。

要約すると、

「パートナーをバカにしている夫婦は、長い目で見ると双方とも幸福であるとは言えず、子育てにも良い影響はでない」

ということ。

確かに、奥さんがひっきりなしに夫の無能さを宣伝しまくっている、なんてこともあるかもしれない。(しかも夫が目の前にいてそういうことをする)

もちろん、その逆もあるだろう。

そういえば、漫玉日記(玉つながりで…)でもそんな描写があった。
レストランに入った時に隣のテーブルの夫婦がそのような感じだったので、イライラして食べる気がしなくなったみたいな。

確かに、そういうのは、いかがなものか、と。
まわりや、けなされている方も当然だが、もしかしたら、けなしている方も不幸なのではなかろうか、と。

玉先生が言うには「パートナーはほめて育てる」くらいに思っておいた方が良いとのことであるが、それはまさにその通りなのだが、この行為を「尊敬のし直し」でもある表現したところに、これはなかなか深い意味が込められているな、と思ったわけである。

まあ、自分の意見を建設的に相手に伝えるということは大切であり、おだてているだけでよいというわけでないのであるが、根本的な姿勢にこのような感覚があるペアは、はたから見ていても気持ちのいいものである。

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雑記

「英語で読む科学」を音読

ここ2ヶ月半、放送大学の教材「英語で読む科学」をひたすら音読(シャドーイングも含む)している。

年内になんとか5周目が終わりそうである。

各周、15回程度は音読(シャドーイングも含む)を行っているので、1文章につき70回程度行ったことになる。

1周目はかなり負担が大きかった。
2~3周目もあまり変わらず、ところが4周目から一気に楽になって来たようなところがある。

それを越えると、今度は体にしみ込んでくる感覚が得られる。つまり、3周目(40回あたりまで)は下地作りで、4周目以後は血肉になっていく、といったところか。

4~6周はもっとも実力の強化になるだろう。

7周目以後、100回を越えると、やり方や意識を微妙に変えつつ取り組まないと効果が落ちてくる。
つまり、それだけ学べるものは学んだ状態になったということだろうが。

工夫としては、アナウンサーのように出来るだけ前を向いて音読する。
つまり文章を見る時間を出来るだけ少なくする。

究極的には、暗唱する。

3ヶ月とか、寝かせてから再度読む。

などなど。

きちんと自分の実力にするには、1冊の教材を何度も繰り返すことが大切である。

昨年のちょうど今くらいの時期に「英語で描いた日本」の音読を開始して、それから、ほとんど毎日1時間くらいは英語の音読もしくはシャドーイングを続けて来た。

あと、さらに1年くらいは続けてみようか。

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英語

努力をする余地があるかどうか?

一般的な話として、将来のことに対して不安を感じることなどが、多くの人にはあるだろう。

その時に「不安」を分類することが大切だと思う。

「大学入試で失敗するかもしれないという不安」であれば、それは努力の余地が大きい。

具体的に何点必要で、何点足りないのか、どこが点を上げやすいか、あと何日で、どういう教材にどのように取り組むのが効果的か、それは、計画が立てられる。計画を立てたら不安は和らぐだろう。まあ、そのあと計画を実行に移す必要はあるが。

では「就職先の上司と相性がいいかどうかという不安」ならどうか、

この不安に対しては努力があまり出来ない。

で、その場合はどうすればいいか。

「まあ、相性のいい上司に出くわすだろう」と楽観的に考えることが大切である。

この場合、ポプランの名言じゃないが「人生を甘く見ること」が非常に重要で、努力でどうにか出来ない状況では、楽観的に考えられる人間の方が結果的にうまく生きることが出来るし、何事にも成功する確率が高い。

「人生は甘くない」と主張している人は、結果的に常にストレスを受けて、やるべきことがコンスタントに出来ず、さらには挑戦することも避ける傾向にある。あまり幸福な人生は送れなそうだ。

出て来た結果に対して、対策できるところは対策すればよいし、改善するところは改善してまた、ぶつかっていけばよい。

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雑記

どこから描き始めているのだろう?

絵を観に来てくれた人から、たまにされる質問がある。

「これはどこから描き始めたのですか?」

自ら作品を作っているような人は、このような質問は普通しない。
どこから描き始めるか、それは重要でないので、覚えていないのである。

一筆描きの作品なら、まあ、いくらかは重要かもしれないが、少しでも手数が入るような作品であれば常に全体を見渡しながら進めるし、始めに筆を置いたところにも、その上から何度も筆を重ねることになる。

それは、誰かの家に招かれて、庭に積もった雪を観て、そして「ずいぶん積もりましたよ。雪だるま作れますよ。」などとその家の人に言われた時に

「始めの一粒はこの庭のどこに落ちたのですか?」

と聞くようなものである。
それは、たとえ見ていたとしても、気にしてはいないし、まして覚えてはいないだろう。

ただ私の場合、あえて答えるとすれば、
重視している面、基準となる透視図法上の起点というものはある。

重視している面は上を向いている面、
基準となる点は、上を向いている面の角、特にもっとも手前に来る角ということになるか。
あとは、絵の画面外になるが、上と下の消失点。

それは常に意識している。

一筆入れる時に、その線の流れに気を向けるのみならず、キャンバス内にどのようにそれが納まるかを同時に考え、画面外の消失点を正確に意識している。

そういう意識である。

将棋でもそうだが、動かしている「歩」とその周辺の駒だけを意識するのではなく、盤上全てを把握して、かつ、盤上に無い相手の持ち駒を意識し続けるみたいな。

もっともそれは、そこそこの将棋指しなら、あたり前にやることであり、基本である。

「どこから描き始めているか?」

この問いを、コンセプトのところまで踏み込むと、それはもっと時間的な奥行きが出る。

もしかしたら「深夜、和田地区を通りかかった時に、光の灯ったビニールハウスを見た瞬間」からかもしれない。
もしかしたら「コタツにもぐりこんで、赤い光を眺めながら、ヤドカリになった夢想をした瞬間」からかもしれない
もしかしたら「1982年・東京都」にまでさかのぼるかもしれない。

ただ、物語はわかりやすい方が良い。

それもいいだろう、キャッロルー、確かにその手の質問には、わかりやすさが肝心だ。

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美術